みずたに探究室。 ゆる〜いアスリートの日々の気づき

ひっそりと生きているアスリートが、日々の気づきや探究結果を公開しています。以下、絶賛連載中! "日本一ゆるい陸上選手の〜"シリーズ ①エッセイ『アスリートが社会のレースから降りてみた』 ②生き方提案『心が軽くなるネコ型お気楽ライフのすすめ』 ③指導の哲学『心を殺さない指導 脱・勝利至上主義』 ④走りの哲学『走りの3種の神器 -腹圧・乗り込み・重心移動-』

【走ることの難しさを書き連ねる】

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陸上を指導している人間の中には、"速く走ることは簡単だ"という人が自分を含め一定数いる。


それはマーケティングのためにあえて挑発的に言っている場合ももちろんあるが、自分は"半分本当で半分嘘だな"と捉えている。


確かに速く走ることは非常にシンプルだ。

特に、"100m 10秒台"程度であれば、いくつかの要素だけクリアしておけばいいと自分は考えている。


しかし、非常にシンプルにも関わらず、本当に難しいものだ。


というのも、"速く走る動き"を理解したとしても、それを体で再現していく行為が非常に難しいのである。


なぜなら、生まれてから今までの間に染み付いた"無意識の体の使い方の癖"を変えなくてはならないからだ。


癖を治していくとは、今まで当たり前だったことを上書きしていき、不自然を自然にしていくことである。


これを例えてみる。

右利きの人は、無意識にすべてのことを右手で行なっていると思う。


その人たちに対して、『今後は箸を持つ時も、歯磨きする時も、物を拾う時も、いかなる時も絶対に左手しか使ってはいけません。』と命令するようなものなので、非常に難しいのである。


ふいにボールが顔面目がけて飛んできたときや、つい転んだ時も、とっさに左手でガードするようにならなければいけない。


しかも走ることは"右手か左手か"といった単純なものではない。

そもそも、"自分の無意識の癖"に自力で気づくことさえ非常に難しいからだ。


そして、運良く気付くことができたとしても、各筋肉や関節を適切な角度やタイミングや使い方ができるように矯正していかなければならない。


さらに、筋肉の使い方は、子どもが初めて自転車に乗るように、初めてその感覚を掴めるまでは未知のものだ。


そういった体の使い方が、100mであれば50歩全部違うのだ。


さらに恐ろしいことに、自分が矯正してきたことが正しいかは、矯正し終わったあとにしか分からない。


そしてほとんどの場合は間違っていて、新たに変な癖がつくだけである。


速く走るという行為が、いかに覚悟や根気を要するかはお分かりいただけただろうか。


だから大学や高校の指導者などは、元から速く走れるフォームが身についている"生まれつき左利き"のような選手を探し出して争奪戦をするのだ。

高一の春から高三の春までの2年間でこれをやるのが難しいからである。


これを自力でやるのは非常に大変な行為であるが、自分が無意識のうちに作り上げたこんがらがった知恵の輪を自分で解いていくようなものなので、クリアできた時の喜びは何ものにも代え難い。


だからこそ、やる価値は多大にあるので楽しんで見てほしい。

 

【燃え尽きる学生が生まれるメカニズム 】

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-POINT-
◎人にはAタイプ(犬)とBタイプ(猫)の2タイプがいる
◎それぞれに合った頑張り方をすべき
◎BタイプがAタイプの真似をするから燃え尽きる
◎それは日本の教育が原因
◎自分を変えずに自分を知って欲しい
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-INDEX-
❶人の頑張り方は大きく分けて2タイプ
 ●モチベーションが違うAタイプとBタイプ
 ●Aタイプの頑張り方とBタイプの頑張り方

❷燃え尽きる人は、BタイプなのにAタイプの頑張り方を強制させられている人
 ●燃え尽きの諸悪の根源は日本の教育
 ●そして燃え尽きるBタイプ

❸Bタイプが燃え尽きないために
 ●自分を変えずに自分を知ろう。そしてやり方を変えよう。
 ●とある学生アスリートのエピソード
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❶人の頑張り方は大きく分けて2タイプ

〇モチベーションが違うAタイプとBタイプ
Aタイプは、一般的にいわれる"ストイックの人"をイメージしてもらえればよい。結果に対して貪欲で、正しい努力をコツコツと続け、最短距離で頂点に上り詰めようとする人だ。本田圭佑選手や大迫卓選手、武井壮さんなどがそう見える。

Bタイプは、名誉や賞賛などにはあまり興味がなく、一見するとやる気がないように見えるが、自分の興味があることはとことん追求し、長時間深く集中できるタイプだ。マラソン設楽悠太選手、嵐の大野君などがそう見える。

このAタイプとBタイプはモチベーション(原動力)が異なる。
Aタイプは"勝利の味" "社会的称賛"を好み、その『欲望を満たす』ことをモチベーションにしている。目の前にぶら下がったご褒美・ニンジンに向けて全力で頑張れる。
競争を好み、衝突を嫌がらず、結果に貪欲だから辛い努力にも耐えることができ、周囲からはストイックに見えやすい。

Bタイプは『好奇心を満たす』ことをモチベーションにしている。好奇心を満たしたいだけなので、勝利にはそこまで興味がない。また、好奇心を原動力に行動するため、努力を辛いことと思わないため、周りから見ると余力を残しているように見える。

AタイプとBタイプのモチベーションの違いは理解いただけただろうか。このように、前提として求めるゴールやスタートを切った理由が違うため、当然適した努力の仕方も異なる。AタイプはAタイプに合った頑張り方を、BタイプはBタイプに合った頑張り方をしていくことが大事になってくる。


〇Aタイプに合った頑張り方とBタイプに合った頑張り方

Aタイプは結果を出さないと気が済まないため、ゴール目標から逆算して、科学的に根拠のある努力を最短距離でしていくことが合っている。そのために自分が使える人脈などを駆使して、妥協せずに最高の環境を追い求めていくと良い。自分ついサボってしまわないように、監視役のコーチを付けるのもいいだろう。

対してBタイプは結果にはストイックではなく、知的好奇心を満たしたい特徴がある。なので目標から逆算して最高の計画を立てるのは向いていない。なぜなら、立てた計画を機械のように淡々となぞっていく行為は一切好奇心を満たせず、苦痛でしかないからだ。

Aタイプが最短距離を進むのであれば、Bタイプは"こっちの道が気になるから、ちょっと寄ってみよう"と回り道を楽しむ方が合っている。回り道の最中に誰も見つけたことのない道を見つけて、世紀の大発見をできるのはBタイプだ。回り道を自由気ままに楽しむのだから、仲間はいない方がいい。1人のほうが身軽だからだ。また、放っておいても勝手に努力をするタイプなので、監視役もいらない。

ここまで書いてきて、Aタイプは管理生活が合っている犬タイプで、Bタイプは自由な生活が合っている猫タイプに見えないだろうか。

ではここで、猫タイプに犬のように振舞うように強制したらどうなるか考えてみてほしい。
例えば、猫に首輪をつけ"こっちに来い"と引っ張ったり、ご褒美のためにお手やお座りをさせるのだ。ストレスでおかしくなってしまわないだろうか?
このように、本当はBタイプ(猫)なのにも関わらず、Aタイプ(犬)の頑張り方を強制させられている人が、燃え尽き症候群になっているのだと私は考えている。
ここから本題に入っていく。

❷燃え尽きる人は、BタイプなのにAタイプの頑張り方を強制させられている人

〇燃え尽きの諸悪の根源は日本の教育
実は日本の教育はAタイプ(犬)の生き方しか求めていない。
・やりたくないことでも黙々とコツコツできる人間
・教科書の順番通りに勉強を進める人間
・褒めたり叱ることで頑張る人間

Bタイプ(猫)に合っていることは真逆だ。
・興味のないことはやらず興味のあることをとことん追求したい
・気になることがあれば遠回りになったとしても回り道したい
・褒められたくも叱られたくもない、放っておいてほしい

しかし日本の教育には、"らしさ"を強要する教育&"人は努力で変われる"という考えに基づく教育という2つの特徴があるため、Bタイプの生き方は否定され矯正されてしまう。

どういうことかというと、まず日本は"らしさ"を求める風潮がある。
"最上級生なんだから"  "キャプテンなんだから"  "お姉ちゃんなんだから"  "大人なんだから" "男なんだから" と常に何かしらの"らしさ"を求められる。教師だって一生懸命"教師らしさ"を演じているのだ。
日本ではその人自身の性格や特性は無視され、求められた"役割"を演じることが重要とされる。
そして、日本における"学生らしさ"はAタイプ(犬)の生き方をすることなので、例えBタイプ(猫)の生き方が合っているとしてもそれは許されないのだ。

さらに厄介なことに、日本には努力神話がある。"努力によって人は変われる"という考えが根付いているので、求められた"らしさ"を演じられてない人は"努力が足りない"と認識される。
そして、"お前なら変われる!変われば幸せになれる!頑張れ!諦めるな!"と、最後は根性論を押し付けてくるのだ。

 

〇そして燃え尽きるBタイプ(猫)
この"本来の自分の否定"を教師や親からされたらどうだろうか。その子どもは"このままじゃダメだ"と本当の自分を自分自身でも否定するようになり、自分に鞭を打つようになる。頂点を目指しているようなフリをして自分自身を騙したり、楽しくもない合理的な努力を淡々として、"これが正しいんだ"と自分自身を説得する。

しかし人としての本質は変わらないため、勝ちに興味がない自分や、意味のない回り道をしたくなる自分がしょっちゅう顔を出し、そのたびに本当の自分を心の奥底で殺してしまうのだ。そうすると自己肯定感が下がり、さらに結果が出たとしても、結果を求めていないので嬉しくもなく、訳が分からなくなり燃え尽きるのだ。

さらに怖いことに、日本の学校・スポーツ・会社においては、"頑張っている姿"が評価されることが多い。
Bタイプ(猫)の頑張りは周囲からは"変なことをしているやつ"  "勝つことに興味がない"とみられがちなので、内申を下げられたり、レギュラーから外されたり、評価を下げられたりする。
なので余計にAタイプ(犬)の真似をするようになる。

 

これが燃え尽きる学生が生まれるメカニズムだ。
自分にムチを打ち、自分を追い込んでいる人は、結果にストイックなように見えるが、実は全然ストイックじゃない。これはBタイプが無理にAタイプのやり方を真似しようとしている状態で、本人は苦しいし本人やチームの成長や結果にも結び付かない。大人の言うことを聞くことを最優先し、その犠牲として成長を捨てている。さらに心まで犠牲にし、燃え尽きてしまう。大人がBタイプの邪魔しなければ、本当はもっとのびのびと楽しく、しかも結果を出せるにも関わらずだ。

 

❸Bタイプが燃え尽きないために

〇自分を変えずに自分を知ろう。そしてやり方を変えよう。

Bタイプ(猫)が本来の自分を変えようとすると、燃え尽きてしまう。
これにもし心当たりがあるのであれば、以下のことをやってみてほしい。
まずは自分を深く知ることだ。

勉強も部活も自分を変えるためにあるのではなく、自分を知るためにある。
"自分はこういう時は頑張れるな" "自分はこうなると萎えちゃうな"などと、自分でも知らない自分をまずは発見することだ。そして、それがもし仮に教師や大人に"そんなんじゃダメだ!"と叱られるような性格だったとしても、"生まれつきこういう性格だからなぁ"と開き直っていい。

"そんなことしてたらレギュラー外されちゃう!監督から長々と説教をくらう!"という子は、監督や厳しい先輩の前ではイヌ型のフリをしていい。ただ、絶対に自分で自分を否定しないことだけは約束してほしい。"周りからは理解されないが、このやり方が自分にとっては最適なだけで、自分だって結果に対してストイックである。"と自信を持って胸を張ってほしい。


〇とある学生アスリートのエピソード

Bタイプ(猫)の例として、私の印象に残っている選手の話をしたい。
一般的に大学生以上の陸上選手は、3月頃に暖かい九州や沖縄で合宿をすることが多い。その選手が所属するチームでは"合宿への参加は有志"ということになった。

このときにAタイプ(犬)の選手は"暖かくて質の高い練習ができるのだから、当然合宿には行きたい"となる。そしてAタイプ(犬)のフリをするBタイプ(猫)の選手は、"行かなきゃやる気のないやつと思われるから、当然行かなくちゃいけない。"と義務感で参加する。

しかし、私の知り合いのBタイプ(猫)の選手は、"今年は暖冬だから、合宿に行かなくても十分に質の高い練習ができる。また、自分の場合は合宿に行ったら観光ついでに美味しいものを食べ過ぎて太ってしまうので、むしろ行かない方がいい。"と言ったのだ。
私は"なんと自分のことを理解して、結果にストイックな選手なのか。"と思った。
"行かないなんて言ったら怒られるだろうなぁ。"などと考えることが恥ずかしくなったのを覚えている。

Aタイプ(犬)のストイックさ・勝利への貪欲さに憧れて自分を騙したり自分を否定して努力する選手は、いわば"本当の自分から目を背けている選手"である。そして先ほどの選手から学べることは、"本当の自分から逃げずに直視すること"である。そうすると常に自分軸で考え、最適な手段を選べる。

どちらが成長できるかは、火を見るよりも明らかだ。
以上、参考になれば嬉しい。

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-POINT-
◎人にはAタイプ(犬)とBタイプ(猫)の2タイプがいる
◎それぞれに合った頑張り方をすべき
◎BタイプがAタイプの真似をするから燃え尽きる
◎それは日本の教育が原因
◎自分を変えずに自分を知って欲しい
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【日記】名探偵になった話 - 2020.06.05

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【名探偵になった話】

 


仕事のお供は、もっぱら無糖のコーヒーだ。
最近は調整豆乳で割るスタイル。 


お気に入りは、豆乳のまろやかさを
感じることのできる5:5の比率。


ここ数日はうだるような暑さが続き、
本当にアイスコーヒーが美味しい季節になった。


さてと、長いこと向き合っていたわりに
作業の進んでいないPC席を立つ。

 
冷蔵庫に向かう途中で琉球ガラスのコップを1つ手に取り、冷凍庫から取り出した氷を2つほど入れる。

 
氷のように透き通った琉球ガラスと、
浄水器の水で作った氷とがぶつかり合い
カチャンと心地良い音色を奏でる。

 
先にアイスコーヒーを入れ、
その上から調整豆乳を追い入れる。
このスタイルが自分のセブンルールの1つ目。

 
あえてかき混ぜはせず、
自然に混ざり合っていく様を見つめる。

 
完璧に混ざり合わないことで、
飲み心地や味が口にするたびに変化するのだ。

 
飲む前から舌鼓を打ちながら、
PCの前に軽快な足取りで戻り、
椅子に座り切る前に口をつける。

 
するとなんだか違和感がある。
口の中にベターっとまとわりつくような
嫌な風味が広がる。思わずウエーっと舌を出す。

 
"何かやばいものでも入れてしまったのか"と
20秒前の記憶を高速で巻き戻す。

 
"いや、何も間違えていないはずだ"
と、ここでピキーーンと閃光のような突然の閃き。

 
その仮説を確かめるために、
今度は慎重な足取りで再び冷蔵庫に足を運ぶ。

 
そして調整豆乳と無糖のアイスコーヒーを
自分の前に並べ、名探偵さながらこう言うのだ。

 
"皆さん、お集まりいただきありがとうございます。"
"この事件の犯人は、皆さんの中にいます。"

 

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【エッセイ】File-01|3歳児編

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自分の人生は、もうずっと違和感と居心地の悪さの連続なのだ。

 

その2つだけで成り立っているといっても過言ではない。

 

もうずっと、

"あれ?なんか皆んな、変じゃね?" "え?そう思うの俺だけ?もしかして俺のほうが変なの?"

"まぁじゃあ、やっぱり皆んなの真似しとくか。"

"あれ?やっぱ周りのほうが変じゃね?なんかおかしくねーか、これ。全然楽しくねーぞ。"

"いや、でも大人から褒められてるのは変な奴らだし、怒られたり呆れられてるのは自分に似た考えの人だ。

"どうしたもんかなぁ"

という自問自答の繰り返しである。

 

身の回りの日常に対してずっと不信感を抱き、時にはそれを見て見ぬを振りをしてみたり、時にはその正体を暴いてやろうと自ら立ち向かってみたり。

でも大人になってもそのしこりのような違和感の正体はわからず、社会的評価を得てもモヤモヤは消えることはなく、むしろどんどんそのモヤモヤの正体が大きくなり存在を無視できないようになった。

 

しかし最近、自分の人生にずっとつきまとっていた違和感の正体がようやく分かった。

 

自分が最初に世の中に違和感を感じたのは25年前の1995年に遡る。 

自分の人生は1992年に東京都板橋区の大山というところでスタートした。

板橋区は東京の北部に位置し、東京といっても派手やおしゃれとは無縁の町だ。

中でも東武東上線沿いに住む人々は東武東上線愛がすごい。

お近くの練馬区や埼玉県に住むと聞けば、"え?何線?"と喰い気味に聞き、西武池袋線有楽町線埼京線と聞くと途端に詰めた距離を元に戻し、他人に戻るのだ。

 

ちなみに板橋民は"どこ住んでるの?"と知人に聞かれると、"ん~、池袋。"と近場の繁華街を答える。

これは見栄のように見えて、"板橋ってどこだっけ?"という無駄な説明を端折る優しさのように見せかけて、実は"池袋って答えるやつ、だいたい練馬か板橋か埼玉県民なんだよなー。"という言葉を待っているのである。

あれは東京北部から埼玉南部の人間だけが使うことを許された魔法の合言葉である。

だいたいそういうやつに住んでいるところを聞くと、"大宮!"とか"浦和!"と答えるが、だいたいは与野に住んでいたりするのだ。

 

さて、話を板橋に戻して、自分の生まれ育った大山という町は自転車の窃盗事件数が日本一らしく、日本で最も軽犯罪が多い。

犯罪者顔ではない自分も、自転車に乗れば即座に"それ、本当に君の自転車?"と警官に止められてきた。自分は犯罪者顔ではないにも関わらずだ。え、犯罪者顔じゃないよね?そもそも犯罪者顔って何?

誰でも犯罪者扱いされるのは気持ちのいいものではない。おかげで、警官が視界に入ると今でも多少ビクッとする。

"お巡りさん、お疲れ様!いつもありがとね!"と、爽やかに声を掛けられる人はきっと、犯罪のない街で育ったきたのだろう。

 

板橋トークをしているとキリがなく、"そろそろ読むのつらくなってきたな"という皆の顔が浮かぶので本題に戻す。

 

自分が世の中に最初に違和感を感じたのは3歳の頃である。

自分には姉がいて、姉は3歳のころから幼稚園に通いだした。

自分も3歳になったときに幼稚園に行くことになりそうだった。

しかし"初日の入園日に姉が号泣した"という話を良心から聞かされていた。

そのために、"え?あの無敵の姉が泣くの?幼稚園やばくね?"と幼心に感じ、年少さんにあたる3歳~4歳の1年間は児童館というところに通った。

 

そこでは絵をかいた体操をしたりして過ごすのだが、それが自分にはできなかった。正確には、絵や体操は苦ではないのだ。

自分は"褒める大人と褒められたい子ども"の姿が一切理解できず、恐怖を感じていたのだ。

 

例えば、絵をかいたら"褒めて褒めて!"と言わんばかりに「見て見てー!」と先生のもとに駆け寄る子どもも理解できなかった。

"絵って夢中になって黙々と書くのが楽しいんじゃないの?"と自分ではそう思っていたのだ。

"皆、変わってんなー。"と横目に見ながら自分は絵を描き続けるのだが、そうすると大人が「ゆうき君は何を書いているの?」と勝手に覗き込んできたり、「わー、すごいねー。」とわざとらしく褒めたりしてくるのだ。(申し遅れましたが、私の下の名前は"ゆうき"と申します。名前だけでも覚えて帰ってね☆)

 

これが自分にとっては恐怖だった。"絵を描く"という世界は自分だけで完結しており、そこに大人が土足で入ってきてジロジロ見渡して、勝手に評価してくるのだ。

"え?すごくないとダメってこと?"  "すごくないねー。っていわれる可能性もあるってこと?"という違和感も覚えた。

 

"お父さんの絵を書きましょう"という課題が出された記憶もある。

休日に車で大きな公園に連れて行ってくれる父の姿を思い浮かべ、車と父親の絵を描いた。

すると、"ゆうき君のお父さんはタクシー運転手さんなんだね!"と言われた。

"何いってんだコイツ"と思いながらも、そもそも自分が何を書いているか伝える必要性も分からなかったため、無言で否定も肯定もしなった記憶がある。

というより、否定をきっかけに会話が始まってしまうことが怖かったのだ。

そのため、石像のように固まって先生がいなくなるまでやり過ごしていた。

自分が"タクシードライバーじゃないよ"というきっかけを与えてしまうと、"ついにゆうきくんとコミュニケーションをとる突破口を見つけたぞ!心を開いてくれたぞ!"とばかりに距離を詰められることは直観として分かっていたのだ。

 

石像になるしかなかったのだ。そう、私は生まれつきコミュニケーションが嫌いなのだ。意味のない雑談は生まれつきできないのである。

石像になるしかなく、石像というくらいなので、感情も表情に出すまいとしていた。

 

私の必殺技"石像"が炸裂した1番の記憶は、その児童館の登園最終日のことである。

その日は最終日ということもあり、皆のお父さんお母さんが見に来ていたように思う。

そしてその保護者が見ている前で、最後にアンパンマン体操を踊るというプログラムがあった。

"1年間練習した成果を見せよう"という趣であった。そう、1年間アンパンマン体操を練習させられてきたのだ。

 

ちなみに自分はというと、アンパンマン体操の曲が流れているときは、眉一つピクリとも動かさず見事な石像として過ごしてきた。

『大人から"皆でこれを踊りましょう!"と言われたから踊る』という思考回路が理解できなかったからだ。

さらに、できたから褒められたり、できなかったから応援されたり励まされたりというやり取りがなんだか気持ち悪く、今想像しても我ながら変わった子どもだったと思う。

 

大人からしたら"扱いづらい子"だっただろう。

でもその"飴と鞭を使って大人が子どもを上手に扱おうとしている"ということ時代が無性に居心地が悪かったので、石像と化していた自分を褒めたいと思う。というより愛くるしい。

 

さて、そんな自分なので、いざ最終日の発表会の時は大人たちがざわついていた。

"あれが踊らない子じゃね?クスクス"といった具合にだ。

"いや、本人の耳に入ってるんですけど”と思いながらも、動かざるごと石像のごとしと、自分の意志も堅かった。

 

しかし、途中で思うのだ。"さすがに成長した姿を親に見せなきゃ申し訳なくね?"と。

しかしこうも思うのだ。"いや、ここで踊りでもしたら、なんか変な感動ストーリーみたいに大人が盛り上がっちゃわないか?"、と。

意志と良心が戦い始め、押し問答を続けるのだ。

 

周りが"私の踊りを見て!!"と言わんばかりにアンパンマン体操を踊る中、自分の脳内の議論は平行線。

自分にはプライドがある、しかし良心もある。

 

しかしアンパンマン体操は徐々に終わりに近づき、それまでにこの議論に終止符を打たなければならない。

思考を放棄するという手もあるが、それも自分のプライドが許さない。(あぁ、なんて面倒くさい子。でも愛くるしい。) 

 

不幸にも1年間見続けただけあって、踊りは覚えているのだ。確か最後に両手をあげるポーズをするのだ。

それまでに答えを出さなければならない。そして刻一刻とタイムリミットは近づき、自分が最後に出した答えは。。。

 

"あくびのフリをして両手を上にあげ、あくびともダンスともとれる動きをする"だ。

我ながらずる賢い選択だったと思う。

"自分は踊っていない。大人の圧力に負けていない。"というプライドは守りながら、"親へ成長を見せてやる。"という義理を果たしたのだ。

 

結果、大人たちは"ゆうき君が踊った"という解釈をし、褒められた記憶がある。

なんなら黄色い悲鳴が上がってスタンディングオベーションになった記憶もある。

それはさすがにないか。

 

ともあれ、自分は3歳に初めて児童館という社会に放り出されてからずっと、こんな風に"大人から指示が来る"ことに恐怖に似た違和感を抱え、それと必死に戦いながら不器用に生きてきたのである。

 

どうだろうか。読んでくれる人で、これに共感してくれる人はいるのだろうか。え?いないの?やっぱり私って変わってるーーー!?!?!?

 

さて、次回は小学校に舞台を移し、"石像でやり過ごすことが通用しなくなった!?"編を書いていきます。

<<<旧記事>>>【日本の教育の"飴と鞭"の怖さ / 部活動のデメリット】

 "飴と鞭"を用いる教員が監督やコーチを務める、部活動というシステムには今でも反対だ。
なぜなら、日本の教育では生徒のモチベーション維持のため"飴と鞭"がよく用いられるが、自分1人で何もできない人を増やすリスクが非常に高い。
 飴と鞭を使うデメリットとして、それらが与えられなければ走ることができず、そもそも自分がどこに走りたいかさえ考えたことのない人を増やしてしまう。

 ちなみに飴と鞭を英語でいうと"carrot&stick"らしい。まさに人参とムチで走らされる競走馬だ。
私の経験でも、顧問の先生の期待に応え続けた生徒が、いざ部活を引退すると、
①飴と鞭で走らされてきたから、自分の進みたい道がわからない
②飴と鞭で走らされてきたから、自分の意思で走ったという感覚がなく、自己肯定感が低い
③飴と鞭で、自分の感情をシカトして走ってきたから、ずっと憂鬱な気分
という三重苦が待っている。

 文科省の調査でも、日本10〜20代は国際的にみても『未来にワクワクしていない』 『自分に自信がない』 『悲しい・憂鬱である』とハッキリと出ている。儒教を基にした日本の義務教育の指導方針では、こうなってしまうのが仕方ない。道徳が強すぎるこの国が"うつ大国"になるのは当然のことだ。

 そのデメリットを補うために、スポーツが存在してほしいと私は願う。だから日本においては、教育とスポーツは切り離してほしい。

 私個人としては、飴と鞭を極力使わずに生きていく。自分より下の人間を評価しない。褒めもしないし、叱りもしない。飴と鞭のどちらもなくても走れる"自走型"の日本人を増やすために、ただ自分の想いだけを伝えていく。

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<<<旧記事>>>【"東京オリンピック"と"引退"】後半

前回の記事では、"引退する選手に、生き様をさらけ出して欲しい。"というメッセージの理由①『その方が、その選手を好きになれるから』に関して述べた。
今回は、
・理由➁:そうすることで、日本が変わる気がするから
・理由➂:その方が、その選手が幸せになれるから
を述べるために、なぜ自分の人生"生き様"をさらけ出せないのか、日本の教育の特徴(デメリット)について述べたいと思う。

理由➁生き様を出すことで、日本が変わる気がするから

アスリートに変えてほしい日本の悪いとこ:"らしさ"の強要
日本は道徳が強い教育のため、集団の暗黙のルールが厳しい。
幼少期から"優等生・いい子かどうか"で判断され、生き方まで強制される。
"高校生なんだから"  "お姉ちゃんなんだから"  "キャプテンなんだから"といった風に、"個性を曲げて役割を演じろ!"と強要される。だからアスリートは"アスリートらしさ"を強要される。そこから外れて髪を染めたりしただけで、誰にも迷惑をかけてないのに"アスリートなんだからチャラチャラするな!"と非難され、応援されなくなる。ひどい場合は、"アニメを観るのが趣味"といっただけで"そんなことばっかしてるから勝てないんだ!"と論理が破綻したお叱りの言葉が飛んでくる。
だから日本人は、いつしか"らしさ"から外れた行動ができなくなり、誰かが望んだ自分を演じる癖がついてしまう。余談だが、だから日本人の若者は世界的に見ると自己肯定感が低く、やりたいことがなく、どこか生きづらいと感じている。問題児や落ちこぼれが出ないことが日本の教育のメリットであるが、そのデメリットとして、鬱・引きこもり・自殺大国となっていると、私は常日頃から発信している。

"アスリートらしさ"はクソくらえ

実はこんな日本を、もっと自由に生きられるよう変えることが私の人生のミッションであり、そのお手伝いをアスリートの方々にしてほしいと願っている。具体的には、感情に蓋をして"アスリートらしさ"という役割を演じるのでなく、むしろ感情を前面に出して"自由に、自分らしく生きていっていいんだよ!"と世の中に発信するシンボルになってほしい。
試合の感想を記者に聞かれたら、"日本の皆さんの応援のおかげで~"ではなく、"楽しかった!"  "なんも覚えてない!" "もう1回走りたい!"くらいの素直な言葉が聞きたい。北島康介の"チョー気持ちいい!"が流行語大賞をとったのも、飾り気のない言葉だったからだろう。
"らしさ"を強要される、不自由で生きづらい日本をもっと自由に良くしていくためにも、アスリートに生き様をさらけ出してほしい。

理由➂"生き様を出した方が幸せだから"

"私のミッションの手伝いをしてほしい"と偉そうなことを書いてしまったが、1番の理由はこれだ。アスリートに幸せになってほしい。
"生き様をさらけ出す"の反対は、"誰かの理想像を演じる"だ。前者は感情をモチベーションに夢中になれるが、後者は感情に蓋をして義務感だけで努力する。"アスリートなんだからもっと頑張らなきゃ"  "アスリートなんだから結果出さなきゃ,オリンピックに出なきゃ"と、誰かに命令されたかのように自分を追い込み、心が疲弊しいつか頑張り疲れる。何より本人が楽しくないし、結果が出たとしても喜びより安堵が勝つ。そういった選手は悲壮感が漂っているので見ていてとても辛い。
なので、アスリートに幸せに生きてもらうためにも、誰かが作った"理想のアスリート像"を演じる必要は全くなく、そもそもあなたは生きているだけで素晴らしいので、"アスリートらしさ"ではなく"あなたらしさ"という生き様を見せつけてほしい。

最後に

さて、2回にわたって"生き様をさらけ出して欲しい"というメッセージを述べてきた
その理由は、以下3つ。
・①その方が、その選手を好きになれるから
・➁そうすることで、日本が変わる気がするから
・➂その方が、その選手が幸せになれるから

生き様とは"自分の感情に素直に従って人生を歩む姿"だと思う。生き様の逆は、"自分の感情に蓋をし、誰かが求める理想像に従い、演じる姿"だと思っている。後者が求められるすぎる世の中では、真面目で頑張り屋の優等生ほど損をする。いつか人生に絶望する。"アスリートなんだから頑張って当然だ"という義務的な風潮を、"アスリートも頑張りたいから頑張ってるんだよ!自分の感情に素直に従ってるだけだよ"という感情的な世の中に変えていきたい。でも自分1人の力ではできない。だからアスリートの皆さんの原動力となっている感情・本音を世の中にどんどん出していってほしい。"喜怒哀楽"のどれかを求めて走るのか、"1番にならなきゃ気が済まないから!"なのか、"試合のヒリヒリした緊張感がたまらないから!"なのか、『人それぞれ違って当然!十人十色!!』という当たり前のことを世の中に発信していってほしい。本音に溢れた世の中になったら嬉しい。

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<<<旧記事>>>【"東京オリンピック"と"引退"】前半

東京オリンピックと引退

東京オリンピックを区切りに引退するアスリートは、果たして日本だけで一体どれだけいるのだろうか。陸上競技に携わる自分の周りだけでも、東京オリンピックのために引退を先延ばしにしていた選手は少なからずいる。そしてその舞台すら奪われた今の心境を、我々常人では想像もできない。

今日ここでは、選手の引退を間近でみてきた自分の"アスリートの引退"に対する持論と"引退する選手に、生き様をさらけ出して欲しい。"というメッセージを述べていきたいと思う。

"引退する前に、生き様をさらけ出して欲しい。"

これが自分の願いだ。理由は以下3つ。
①その方が、その選手を好きになれるから
➁そうすることで、日本が変わる気がするから
➂その方が、その選手が幸せになれるから

これを順に述べていきたいと思う。

理由➀"生き様を出す選手を好きになるから"


まず1つ目は、個人的な理由である。

芸人も歌手も生き様が大事

生き様とは何かを説明するうえで、お笑い芸人を比喩に挙げさせてもらう。
売れる芸人に関して、一発屋で終わる芸人と、売れ続ける芸人がいる。
その両者の差は、人としての生き様を見せているかどうかだと思っている。
"芸人"という言葉は、"芸"と"人"の2つから構成されている。
芸人として究極の状態は、"その人がそのネタをやるから面白い" "その人以外がやってもそこまで面白くない"という、"芸"と"人”の部分がマッチした状態であると思っている。
一発屋で終わる芸人は、前者の"芸"だけが優れている芸人であることが多い。ギャグやネタのフレーズなどが爆発的に流行るが、ブームが落ち着くとともにメディア露出がなくなる。逆に"人"だけが優れている芸人は面白いネタがかけなくても、いじられ役やドッキリスターとしてテレビに出続けている。"人"としての部分が人々に与える影響は大きい。
芸人の例えがしっくりこない場合は、歌手で例えてもいいだろう。
"他の歌手がカバーしても原曲は越えられない!"と認められる状態が歌手として1番いい状態であると個人的には考えている。子どもが浮気の歌を歌ったとして、そのギャップから1発当たることはあるかもしれないが、売れ続けることは難しいだろう。
歌がうまくても売れない歌手がいるのに、歌が下手でも何故か惹きつけられる歌手がいるのは、歌の技術より"人"としての部分が、より求められているからだろう。

例えが長くなったが、なので個人的にはアスリートにも"人"としての部分を見せてほしい。ランナーであるならば、"走者"の"走"の部分だけでなく"者"の部分が見たいのだ。"どう走るか"も楽しみだが、"誰が走るか"といった部分も楽しみたい

陸上競技は、生き様を見せずに引退する選手が多い気がする

陸上競技に関していえば、陸上競技はその競技特性から、25歳くらいまでの若者が活躍しやすいスポーツだ。酸いも甘いも経験した30~40代が第一線で活躍するケースは稀である。

それはそれでいいのだが、なぜかひっそりと引退する選手が多い気がする。故障が原因で引退するケースが多いからか、"ここはもう自分の居場所じゃない"と思ってしまうのか、"まだ終わりたくない!"と心の叫びを前面に出すようなベテランランナーが数少ない。『今まで応援ありがとうございました。皆さんのおかげで幸せな競技人生になりました。次のステージでも・・・』といった常套句の挨拶が多いように感じる。個人的には、"本音言うとまだまだ走りたかった!でも怪我でどうすることもできなかった!"といった言葉が聞きたい。もしかすると、その意志を継ぐ現役選手が出てきて競技が活性化するのではないかとさえ思う。

イチロー松坂大輔・ミスターSASUKE 山田克己

30代以上の選手というと、野球では『松坂大輔イチローといったスター選手が"俺はまだやれる!"と現役を続行し、"落ち目なんだから引退して若者に席を譲れ!"  "給料泥棒!"などと野球ファンからいわれるも折れず、ついにはその人たちからも応援され始める』といった現象が起きる。ミスターSASUKE 山田克己を彷彿とさせる。あの執念を目の当たりにすると、一定数以上の人間は応援したくなるものだ。陸上競技の"執念"といえば箱根駅伝だ。"仲間のために襷を繋ぐ"という執念が国民に受ける要素の1つになっている。甲子園人気とも繋がるが、"卒業とともに引退"という縛りがあるから学生スポーツの人気は根強い。
もし陸上選手で"まだ引退したくない!老いに負けたくない!"という執念・生き様を隠さずさらけ出せる選手がいれば、自分はその選手から目が離せなくなると思う。きっと小さな大会の結果すら追いかけてしまう。だから生き様をさらけ出してほしい。(個人的な欲を言えば、人の文章を読むのが好きなのでブログなどで発信してくれたら嬉しい。もしくは自分が聞き手になって対談し、アスリートの本音を探る映像やラジオを配信してみたい)

人の人生が垣間見えると、その人を好きになる。だからアスリートには生き様をさらけ出してほしい。

次回の記事では、引退前に生き様をさらけ出すことで、"日本が変わる気がする"&"その選手が幸せになれる"という内容について述べる。

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