【エッセイ】File-01|3歳児編
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自分の人生は、もうずっと違和感と居心地の悪さの連続なのだ。
その2つだけで成り立っているといっても過言ではない。
もうずっと、
"あれ?なんか皆んな、変じゃね?" "え?そう思うの俺だけ?もしかして俺のほうが変なの?"
"まぁじゃあ、やっぱり皆んなの真似しとくか。"
"あれ?やっぱ周りのほうが変じゃね?なんかおかしくねーか、これ。全然楽しくねーぞ。"
"いや、でも大人から褒められてるのは変な奴らだし、怒られたり呆れられてるのは自分に似た考えの人だ。
"どうしたもんかなぁ"
という自問自答の繰り返しである。
身の回りの日常に対してずっと不信感を抱き、時にはそれを見て見ぬを振りをしてみたり、時にはその正体を暴いてやろうと自ら立ち向かってみたり。
でも大人になってもそのしこりのような違和感の正体はわからず、社会的評価を得てもモヤモヤは消えることはなく、むしろどんどんそのモヤモヤの正体が大きくなり存在を無視できないようになった。
しかし最近、自分の人生にずっとつきまとっていた違和感の正体がようやく分かった。
自分が最初に世の中に違和感を感じたのは25年前の1995年に遡る。
自分の人生は1992年に東京都板橋区の大山というところでスタートした。
板橋区は東京の北部に位置し、東京といっても派手やおしゃれとは無縁の町だ。
お近くの練馬区や埼玉県に住むと聞けば、"え?何線?"と喰い気味に聞き、西武池袋線や有楽町線、埼京線と聞くと途端に詰めた距離を元に戻し、他人に戻るのだ。
ちなみに板橋民は"どこ住んでるの?"と知人に聞かれると、"ん~、池袋。"と近場の繁華街を答える。
これは見栄のように見えて、"板橋ってどこだっけ?"という無駄な説明を端折る優しさのように見せかけて、実は"池袋って答えるやつ、だいたい練馬か板橋か埼玉県民なんだよなー。"という言葉を待っているのである。
あれは東京北部から埼玉南部の人間だけが使うことを許された魔法の合言葉である。
だいたいそういうやつに住んでいるところを聞くと、"大宮!"とか"浦和!"と答えるが、だいたいは与野に住んでいたりするのだ。
さて、話を板橋に戻して、自分の生まれ育った大山という町は自転車の窃盗事件数が日本一らしく、日本で最も軽犯罪が多い。
犯罪者顔ではない自分も、自転車に乗れば即座に"それ、本当に君の自転車?"と警官に止められてきた。自分は犯罪者顔ではないにも関わらずだ。え、犯罪者顔じゃないよね?そもそも犯罪者顔って何?
誰でも犯罪者扱いされるのは気持ちのいいものではない。おかげで、警官が視界に入ると今でも多少ビクッとする。
"お巡りさん、お疲れ様!いつもありがとね!"と、爽やかに声を掛けられる人はきっと、犯罪のない街で育ったきたのだろう。
板橋トークをしているとキリがなく、"そろそろ読むのつらくなってきたな"という皆の顔が浮かぶので本題に戻す。
自分が世の中に最初に違和感を感じたのは3歳の頃である。
自分には姉がいて、姉は3歳のころから幼稚園に通いだした。
自分も3歳になったときに幼稚園に行くことになりそうだった。
しかし"初日の入園日に姉が号泣した"という話を良心から聞かされていた。
そのために、"え?あの無敵の姉が泣くの?幼稚園やばくね?"と幼心に感じ、年少さんにあたる3歳~4歳の1年間は児童館というところに通った。
そこでは絵をかいた体操をしたりして過ごすのだが、それが自分にはできなかった。正確には、絵や体操は苦ではないのだ。
自分は"褒める大人と褒められたい子ども"の姿が一切理解できず、恐怖を感じていたのだ。
例えば、絵をかいたら"褒めて褒めて!"と言わんばかりに「見て見てー!」と先生のもとに駆け寄る子どもも理解できなかった。
"絵って夢中になって黙々と書くのが楽しいんじゃないの?"と自分ではそう思っていたのだ。
"皆、変わってんなー。"と横目に見ながら自分は絵を描き続けるのだが、そうすると大人が「ゆうき君は何を書いているの?」と勝手に覗き込んできたり、「わー、すごいねー。」とわざとらしく褒めたりしてくるのだ。(申し遅れましたが、私の下の名前は"ゆうき"と申します。名前だけでも覚えて帰ってね☆)
これが自分にとっては恐怖だった。"絵を描く"という世界は自分だけで完結しており、そこに大人が土足で入ってきてジロジロ見渡して、勝手に評価してくるのだ。
"え?すごくないとダメってこと?" "すごくないねー。っていわれる可能性もあるってこと?"という違和感も覚えた。
"お父さんの絵を書きましょう"という課題が出された記憶もある。
休日に車で大きな公園に連れて行ってくれる父の姿を思い浮かべ、車と父親の絵を描いた。
すると、"ゆうき君のお父さんはタクシー運転手さんなんだね!"と言われた。
"何いってんだコイツ"と思いながらも、そもそも自分が何を書いているか伝える必要性も分からなかったため、無言で否定も肯定もしなった記憶がある。
というより、否定をきっかけに会話が始まってしまうことが怖かったのだ。
そのため、石像のように固まって先生がいなくなるまでやり過ごしていた。
自分が"タクシードライバーじゃないよ"というきっかけを与えてしまうと、"ついにゆうきくんとコミュニケーションをとる突破口を見つけたぞ!心を開いてくれたぞ!"とばかりに距離を詰められることは直観として分かっていたのだ。
石像になるしかなかったのだ。そう、私は生まれつきコミュニケーションが嫌いなのだ。意味のない雑談は生まれつきできないのである。
石像になるしかなく、石像というくらいなので、感情も表情に出すまいとしていた。
私の必殺技"石像"が炸裂した1番の記憶は、その児童館の登園最終日のことである。
その日は最終日ということもあり、皆のお父さんお母さんが見に来ていたように思う。
そしてその保護者が見ている前で、最後にアンパンマン体操を踊るというプログラムがあった。
"1年間練習した成果を見せよう"という趣であった。そう、1年間アンパンマン体操を練習させられてきたのだ。
ちなみに自分はというと、アンパンマン体操の曲が流れているときは、眉一つピクリとも動かさず見事な石像として過ごしてきた。
『大人から"皆でこれを踊りましょう!"と言われたから踊る』という思考回路が理解できなかったからだ。
さらに、できたから褒められたり、できなかったから応援されたり励まされたりというやり取りがなんだか気持ち悪く、今想像しても我ながら変わった子どもだったと思う。
大人からしたら"扱いづらい子"だっただろう。
でもその"飴と鞭を使って大人が子どもを上手に扱おうとしている"ということ時代が無性に居心地が悪かったので、石像と化していた自分を褒めたいと思う。というより愛くるしい。
さて、そんな自分なので、いざ最終日の発表会の時は大人たちがざわついていた。
"あれが踊らない子じゃね?クスクス"といった具合にだ。
"いや、本人の耳に入ってるんですけど”と思いながらも、動かざるごと石像のごとしと、自分の意志も堅かった。
しかし、途中で思うのだ。"さすがに成長した姿を親に見せなきゃ申し訳なくね?"と。
しかしこうも思うのだ。"いや、ここで踊りでもしたら、なんか変な感動ストーリーみたいに大人が盛り上がっちゃわないか?"、と。
意志と良心が戦い始め、押し問答を続けるのだ。
周りが"私の踊りを見て!!"と言わんばかりにアンパンマン体操を踊る中、自分の脳内の議論は平行線。
自分にはプライドがある、しかし良心もある。
しかしアンパンマン体操は徐々に終わりに近づき、それまでにこの議論に終止符を打たなければならない。
思考を放棄するという手もあるが、それも自分のプライドが許さない。(あぁ、なんて面倒くさい子。でも愛くるしい。)
不幸にも1年間見続けただけあって、踊りは覚えているのだ。確か最後に両手をあげるポーズをするのだ。
それまでに答えを出さなければならない。そして刻一刻とタイムリミットは近づき、自分が最後に出した答えは。。。
"あくびのフリをして両手を上にあげ、あくびともダンスともとれる動きをする"だ。
我ながらずる賢い選択だったと思う。
"自分は踊っていない。大人の圧力に負けていない。"というプライドは守りながら、"親へ成長を見せてやる。"という義理を果たしたのだ。
結果、大人たちは"ゆうき君が踊った"という解釈をし、褒められた記憶がある。
なんなら黄色い悲鳴が上がってスタンディングオベーションになった記憶もある。
それはさすがにないか。
ともあれ、自分は3歳に初めて児童館という社会に放り出されてからずっと、こんな風に"大人から指示が来る"ことに恐怖に似た違和感を抱え、それと必死に戦いながら不器用に生きてきたのである。
どうだろうか。読んでくれる人で、これに共感してくれる人はいるのだろうか。え?いないの?やっぱり私って変わってるーーー!?!?!?
さて、次回は小学校に舞台を移し、"石像でやり過ごすことが通用しなくなった!?"編を書いていきます。