【走ることの難しさを書き連ねる】
陸上を指導している人間の中には、"速く走ることは簡単だ"という人が自分を含め一定数いる。
それはマーケティングのためにあえて挑発的に言っている場合ももちろんあるが、自分は"半分本当で半分嘘だな"と捉えている。
確かに速く走ることは非常にシンプルだ。
特に、"100m 10秒台"程度であれば、いくつかの要素だけクリアしておけばいいと自分は考えている。
しかし、非常にシンプルにも関わらず、本当に難しいものだ。
というのも、"速く走る動き"を理解したとしても、それを体で再現していく行為が非常に難しいのである。
なぜなら、生まれてから今までの間に染み付いた"無意識の体の使い方の癖"を変えなくてはならないからだ。
癖を治していくとは、今まで当たり前だったことを上書きしていき、不自然を自然にしていくことである。
これを例えてみる。
右利きの人は、無意識にすべてのことを右手で行なっていると思う。
その人たちに対して、『今後は箸を持つ時も、歯磨きする時も、物を拾う時も、いかなる時も絶対に左手しか使ってはいけません。』と命令するようなものなので、非常に難しいのである。
ふいにボールが顔面目がけて飛んできたときや、つい転んだ時も、とっさに左手でガードするようにならなければいけない。
しかも走ることは"右手か左手か"といった単純なものではない。
そもそも、"自分の無意識の癖"に自力で気づくことさえ非常に難しいからだ。
そして、運良く気付くことができたとしても、各筋肉や関節を適切な角度やタイミングや使い方ができるように矯正していかなければならない。
さらに、筋肉の使い方は、子どもが初めて自転車に乗るように、初めてその感覚を掴めるまでは未知のものだ。
そういった体の使い方が、100mであれば50歩全部違うのだ。
さらに恐ろしいことに、自分が矯正してきたことが正しいかは、矯正し終わったあとにしか分からない。
そしてほとんどの場合は間違っていて、新たに変な癖がつくだけである。
速く走るという行為が、いかに覚悟や根気を要するかはお分かりいただけただろうか。
だから大学や高校の指導者などは、元から速く走れるフォームが身についている"生まれつき左利き"のような選手を探し出して争奪戦をするのだ。
高一の春から高三の春までの2年間でこれをやるのが難しいからである。
これを自力でやるのは非常に大変な行為であるが、自分が無意識のうちに作り上げたこんがらがった知恵の輪を自分で解いていくようなものなので、クリアできた時の喜びは何ものにも代え難い。
だからこそ、やる価値は多大にあるので楽しんで見てほしい。